窓をあけて空をみよ

戸建に引っ越し。買わずに、大切に、気持ちよく。

気持ちを落ち込ませるほどの我慢

子どものころ始めた武道は、2年でやめたくなった。

厳しい母は、自分で言い出したことでしょ、といってやめさせてくれなかった。

それからまた2年がんばった。

何度さぼっても、激しく叱責された。

ドクターストップがかかったときは、これでやめられると喜んだのに

それでもやめることは許されず、痛み止めの注射を打ちながら試合に出た。

日本を代表するアスリートじゃあるまいし。

やめたい理由も聞いてもらえず、やめさせたくない理由も言ってくれなかった。

結局8年。

 

このことを人に話すと忍耐力がついてよかったね、と言われる。

でも、忍耐力というよりは、ただただ我慢していただけ。

困難を乗り越えるとか、やり遂げるとか、そんな前向きなことではなく

鬱積した感情をただひたすら持ち続けていただけ。

もしかしたらひとつやふたつ楽しい思い出もあったのかもしれないけれど、

思い出されるのはただただ辛かった、ということだけで、

でもその話になると母親を責める口調になってしまうので

どうしてそこまでして続けさせたかったのかも聞いていない。

ものごとを嫌々続けるデメリットは、忍耐力がつくというメリットをはるかに超えていた気がする。

 

だから、自分の子どもには、やりたいことを挑戦させたかったし、

やめるときも本人の意思を尊重したいと思ってきた。

嫌なことを我慢し続ける忍耐力よりも、やりたいことのなかで遭遇する困難を

乗り越える忍耐力をつけてほしかった。

 

こどもには未知の世界を知るきっかけをできるだけ多くつくるようにした。

親であるわたしにもいろんな思惑や期待はあったけれど、そこはこらえて、

子ども自身がもっともっと!という強い気持ちが出てきたときに,

よし!と応援するようにした。

そのほうが意欲も高いし吸収も早い、なにより楽しんでやっていたように思う。

だからなのかもしれないけれど、そんなふうに始めたことは、

やめるときに「やめたい」とは言わず「やめる」だった。

やめたい、のではなく、やめる「時」がきた、というすっきりとした意思があった。

 

それでも次女が「やめたい」といったこともある。

やめたいと言い出す1、2か月前からなんとなく悩んでいるのは気づいていたし、

理由も納得できた。簡単にやめたいって言ってるんじゃないことがわかったから

それは「やめたい」で良かったと思う。

 

忍耐力は必要。

でも、気持ちが落ち込んでしまって抜け出せないほどの我慢は必要ない。

と、わたしは思う。